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意図と指示
  最近知ったが、『ドラえもん』には「独裁者ボタン」という話があり、これは野比のび太が自分の嫌いな者を消すことのできるボタンを用いて、次々と周囲の人を消していき、最終的には自分以外のすべての人を消した後に事の重大さに気づくというものだそうだ。この例において、後にそんなことは不可能であるということが論証され、さらにその改訂可能性も完全に否定されたとしよう。ボタン1つで人を消去できるような道具は実現し得ないという命題の絶対確実性が論証されたと仮定するということである。(なお、独裁者ボタンが効果を発揮するためには、その使用の際に、『DEATH NOTE』がそうであるように対象の顔や氏名を思い浮かべる必要がある等の条件があったかもしれないが、それを持ち出すとさらにややこしくなるので、ここでは措いておく。)すると、その理論は「不可能な理論」ということになり、その理論(もどき)に基づく、「独裁者ボタン」という話は空虚であると言えるであろう。こうして、「あるボタンを押せば人を消すことができる」理論は何も指示していないことになり、したがって対象の意図は空虚になる。
  少し話を戻して、制作者が「独裁者ボタン」という物語をつくる以前にそこで用いられている考えの不可能性が証明されており、かつ制作者がそれについて理解している場合、彼は「独裁者ボタン」という物語をつくったものの、彼は自分がいったい何を言っているのかを理解していないということになる。
  これら(具体的には、これまで述べてきた、物語制作時にすでに用いようとしている理論の不可能性が分かっている場合と分かっていない場合のそれぞれにおける問題)に対して、虚構世界であるということのみを以って何も問題はないとする見方があろう。しかし、そうであるならばいったいその虚構世界にはこの世界と異なるどのような理論体系が成立しているのか、そしてそれら理論体系相互に決して矛盾はないということを示す必要があるのではないか。(その基準が厳しいとしても、少なくとも虚構世界一般についての分析は必要であろう。)それらができないならば、自らが何を言っているのか理解していないということになる。そこではせいぜい、「何かを意図しようという意図」、あるいは「何かを意図しているという思い込み」であるメタ意図は成立しても、その具体的な内容である対象の意図は成立しないのである。
  ここには、さらなる問題が潜んでいる。それは、(ある装置を用いて)人を消すということがいったいいかなることであるのかということが明晰ではないというものである。
  しかしながら、上の議論の運びには問題もある。私は、ある言明が何も指示しない場合もあるということを示唆したが、これは当然「それが何であれ指示は常に成立する」という立場が絶対確実に正しいことを論証することができない以上、それに反する立場にも可能性があるという程度のもので、厳密さはない。ここで問題となるのは、誰かが探究の結果として「われわれが指示に失敗するということは不可能である」という命題の論証に成功した場合、「われわれは指示に失敗する可能性がある」という私の言明がいったい何を指示しているのかが分からなくなるということである。あるいは反対に、「われわれは指示に失敗する可能性がある」という命題の正しさが論証された場合には、「誰かが探究の結果として『われわれが指示に失敗するということは不可能である』という命題の論証に成功した場合、『われわれは指示に失敗する可能性がある』という私の言明がいったい何を指示していたのかが分からなくなる」という言明が何ごとかを指示していることになるのであろうか。
  私がこの疑問を抱いたきっかけは『ひぐらしのなく頃に 祭』というテレビ・ゲームである。そのゲームでは、園崎魅音と園崎詩音という、これまで彼女たちに接してきた人びとにとって見分けがつかない一卵性双生児が登場するが、2人は途中で何度か入れ替わったり、あるときからは入れ替わったまま生活することになり、おそらく2人が高校3年生のときに「園崎魅音」は転向してきた主人公と友人になる。
  このとき、われわれ(主人公を含む)はいったい園崎魅音ならびに/あるいは園崎詩音という固有名によって何を指示しているのか、それとも何も指示していないのか。
  私が暫定的に提示した考えでは、上記の場合、少なくとも両者の区別が付いていない者にとっては、園崎魅音ならびに/あるいは園崎詩音という固有名は何も指示することができていないことになるのであるが、果たしてこれは正しいのであろうか。
  なお、この例には、ある対象とある固有名との結びつきがいかにして正当化されるかという問題も潜んでいる。




  備  考


前提:
◇現在の魅音=本来の詩音
◇現在の詩音=本来の魅音


解釈:
◆生物学+法学→本来の魅音/現在の詩音が魅音(現在の日本人の多数派の常識より)
◆構成主義→本来の詩音/現在の魅音が魅音(ただし、多数派が当事者の双子とは反対の認識を持っている場合に限る)
◆(生物学+)外延主義→本来の魅音/現在の詩音が魅音(『虚構世界の存在論』より)
◆(生物学+)現象主義→本来の詩音/現在の魅音が魅音(『虚構世界の存在論』より)


# 「本来の」という語がすでに生物学(というよりも、彼女たちに対して生物学に基づく検査をしていない以上、生物学を用いればそうなるであろうという予想)を前提にしており、生物学(あるいは件の思い込み)が絶対確実であることは確定していないため、上記の考え方はすべて独断になってしまうか……。

更新日 2007年6月5日
作成日 2007年3月31日



関連項目

A 懐疑論とその限界
A 現実と虚構(作品)を巡る批判と応答
A 理由と原因と責任の混同
A 論理の重要性についての1節