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誤った比較の仕方
  昔に比べて重大犯罪が多くなった、昔に比べて人びとがより働かなくなった、昔に比べてアニメが性的なものを前面あるいは全面に出すようになってくだらなくなったなどといったように、過去と比較して現在を評価する仕方をよく目にする。しかしながら、なぜ過去を基準にすることが正しいと言えるのであろうか。
  また、ここでは過去のなかからいずれかの時点を選択しているのであるが、たとえばそうした言説を弄する人びとが伝える歴史のうちの石器時代を基準にしようとは思わないであろうし、実際そうしている場面を目にしたことがない。彼らは、自らの感覚や感情によって、どの時代を正しいとするかを恣意的に決定していることを示しているように思われる。あるいは、過去を基準にすることが正しいとは考えていないならば、なぜ過去と比較して現在を論じるのであろうか。
  ここにはまた、さらに別の問題もある。それは、あることを比較するときに、他の状況が変化していることをまったく考慮しないことがあるということである。他の状況が変化しているならば、その比較していることについても変化があるというのは不思議ではないはずである。他のすべての状況が変化していない場合ですら、原理的にはあることだけが変化するということもあるのである。
  なお、冒頭に挙げた例のうち、「昔に比べて重大犯罪が多くなった」、「昔に比べて人びとがより働かなくなった」については、より頭の弱くない人びとは懐疑的である。すなわち、過去について流通している評価自体がそもそも本当かどうか疑わしい場合もあるのである。
  さらに、上記の2つよりも根源的な疑問は、過去と比較して現在が悪い状況になっていたとしてなぜそれが誤っていると言えるのかということである。


  上の例とは違い、共時的であるが、異なる空間間の比較も誤っている場合があり得る。たとえば、かつての日本人とかつてのアメリカ人の労働時間を比較して、日本人のほうが努力家であったということがしばしば言われるが、少なくともそこに見られる労働時間の差が日本人の労働の非効率性(もしくはアメリカ人の労働の高効率性)を示すものである可能性について検討を加えなければ、表層的な判断に終わってしまうことになる。
  ただし、自虐的に日本人の労働が非効率である可能性があるなどと述べたが、差し当たってその効率性は相対的なものである。それは、なぜアメリカ人を基準にせねばならないのかという疑問が残るからにほかならない。また、仮に相対的に非効率で、かつアメリカ人を基準にしなければならないという場合でも、効率についての努力はあまりなされていないかもしれないが、それを補うために量的な努力を行っているという点では、アメリカ人よりも努力家であると捉えることもできる。(あるいは、「日本人がアメリカ人よりも勤勉で、努力家である」という言説は、日本人の非効率性に対する皮肉なのか。所詮毛唐ならその可能性も考えられる。)


  人びとが、先述した2つの誤りと同程度の頻度で陥るのが「この程度で〜」、「〜よりマシ」、「〜ぐらい我慢しろ」という考え方である。この考え方で行けば、「強姦されるよりマシだろ。痴漢ぐらい我慢しろよ。」、「殺されるよりマシだろ。強姦ぐらい我慢しろよ。」、「暴行されるよりマシだろ。金を盗まれたぐらい我慢しろよ。」などとなり、行き着く先は各人の感じる最悪の状況以外はすべて耐えなければならないという地点である。
  より頭の弱い者ならば、各人によって認識が異なっている可能性を無視して(実際異なっていると思うが)、他者における最悪の状況をかってに設定する(より厳密には多数派の感覚や感情に統一しようとし、それを強要する)であろう。

更新日 2006年12月--日
作成日 2005年11月--日



関連項目

A 懐疑論とその限界
A 論理の重要性についての1節