一般人論駁・終章 矛盾・自己中心性・社会性
■わたしが唱道する倫理は、(1)「それが個人のものであれ、どのように数の多い集団に共有されているものであれ、感覚や感情のみによって、あるいは感覚や感情を論証せずに正当化/絶対化してはならない」、(2)「実践の正当性を保持しなければならない〔実践上の矛盾に陥ってはならない〕」というものである。
 →(1)は「〜してはならない」ではなく、「〜することはできない」であった。(かってに規範的言明を持ち出してくるな!)(2007年5月12日)
■(1)は理論の問題であり、(2)は実践の問題である。
■感覚や感情を正当化せずにそれらを維持することは現実世界において可能である。
■実践上の矛盾は、ある個人の行為間の整合性の有無によって決定づけられる。
■実践上の矛盾は、「ある人を何歳であると思うか」といったような種類の感覚や、「ある人のことを好きか嫌いか」といった感情の問題ではない。すなわち、「ある人が20歳にも見えるし、30歳にも見える」といったこと、「ある人のこの部分は好きだが、あの部分は嫌いだ」といったことはわたしのいう実践上の矛盾に当たらない。
■ある人が主張する理論それ自体は、その人の実践上の矛盾(たとえばその理論と矛盾する理論を同時に持つこと)によって影響を受けるものではない。
■しかしながら、実践上の矛盾があるならば、その人がその理論(あるいはその理論と同時に持っている、その理論と矛盾するもう一方の理論)を保持および主張する資格はない。
■「感覚や感情を論証ないし証明せずに正当化/絶対化してはならない」、「実践上の矛盾を改めなければならない」という2つの倫理は、法律で言えば努力規定であって、義務規定ではない。
■したがって、それらに違反していたとしても他者が強制的に修正させようとしたり、何らかの攻撃を行う必要性はなく、かつそうした行為に正当性はない。
 →わざわざ言うまでもなく、わたしが一般人を攻撃しているのはわたしのかってな理由によるのであって、人びとの違反に対するわたしの感覚や感情については誰にも責任がない(しかし強いて言うならば、わたしに責任がある)。
■より一般化するならば、ある人の考え方や行為が誤っていることがその人を批判ならびに/あるいは攻撃することに正当性を付与することはない。
■先述した2つの倫理のみならず、さまざまな立場の人が唱える互いに異質な倫理、さらにはあらゆる法律やそれに類するものに違反した者に対して何らかの攻撃を行うのは、各人の違和感、ならびに怒りや蔑みなどの感情によっている。
■たとえ「人は倫理や法律に違反することに対して常に否定的であるという生物学的特性を持っている」という命題が正しいとしても、ただそれだけで倫理や法律に違反してはならないということにはならない(その命題が示しているのは、単に人がそうした特性を持っているという説明が正しいということだけである)。
■(1)と(2)について態度を修正した場合、実践上の問題は完全に消滅する(戦争における賠償問題のような理論上の問題は残るかもしれないが、過去の時点における実践上の矛盾について追及されるものではないということである)。


 「なぜ矛盾を犯してはならないのか」という問いにどのようにして答えることができるだろうか。
 これを受けて、批判対象を「矛盾を犯しているにもかかわらず、同じく矛盾を犯している他者を攻撃する者」に絞り込んだとしても、今度は「なぜ矛盾を犯している他者を同じく矛盾を犯している私が批判してはならないのか」といった問いを向けられることになる。
 さらに、別の、より強力な反論も思い浮かんだ(はずだが忘れてしまった)。  # これを思い出す。
 しかし、「「1+1」の答えは「2」かつ「2でない」である」と主張する者は、自身の言っていることを理解しておらず、ただ空虚な言明を行ってるだけであることから、互いに矛盾する2つ以上の言動を行う者、あるいはそうした言明が同時に成功すると信じる者は、思い違いをしているのである。これについて、開き直るという態度を採用するのは取りも直さず自身の矛盾が矛盾である〔同時に成功しない〕ことを理解していない証拠である。また、「このような矛盾」〔「1+1」の答えは「2」かつ「2でない」と言明すること〕や「矛盾一般」を修正しないという選択はコミュニケーション(communication)を軽視あるいは拒絶するということになるため、社会ないし社会性を重視する者(どの国家や集団でも多数派に該当すると思われるが)、そしてより直接的にコミュニケーション能力が低いとして他者を攻撃する者がそうしたことを行った場合、そこにもまた矛盾が生じることになる。

 追記


 (1) 批判を紹介する。
 Name:あああ  Date:03/06 Tue 22:35:13

長いな、おい。
俺は短く纏めて欲しいと頼んだはずなんだが。
まあいいけど。
昨日の時点で書こうと思ってた事を書かなくて良かった。
俺の私見の大半は間宮君のレスに内包されているようだ。
以下は殆ど搾りかすのような事だが、一応書いておく。
俺は全ての人間は間宮君の言う様な実践上の矛盾は犯していないと考えている。
それは全ての人間が、自分のしたいようにするという唯一絶対の基準に従って行動しているからだ。
それ以外の間宮君が挙げたような理論は全て上の基準に従属するものに過ぎない。
つまり、それらの従属する理論は常に流動的であり、上位の基準に反するなら常に棄却されるのである。
間宮君が批判するのは多くの人間がそれを無意識の内に実行しているにもかかわらず、そこを省みようとせず、あたかも普遍的な正当性を持つかのごとく振舞うこと、というところか。
ただ、その事も結局は上の基準に反するものではなく、絶対的な自己中心性に従っているだけである。
言うまでもなく、これは彼らの言動に普遍的正当性を与えるものではなく、飽くまで自己完結的なもの。
また、間宮君が自らも認めたように、他者に対する攻撃は正当性を持つものではない。
個々の自己中心性はそれが大多数の自己中心性の最大公約数的(ですらないかもしれないが)な妥協点を明文化し、強制力を持たせた法律といったものによって制約されうるということであり、ガキ晒し上げの例においてもその事を含めた言動はただの脅迫に過ぎない。
そして同様の手法を持って他者を制裁しようとすれば、ただそれが自分にも跳ね返るだけのことである。
ここで上で述べた事に更に突っ込むなら、そもそも他者への攻撃のみならず、全ての行動はそこに普遍的な正当性を付与する類のものではないのだ。
あるのは強者が、民主国家においては(見かけ上)多数派が強制力を持つ規制を設定できるという事実だけだ。
そこで結論だが、間宮君が自らの不満を自らの理論に反することなく満足させるためには首を吊るのが一番手っ取り早いと俺は思う。
 「全ての人間が、自分のしたいようにするという唯一絶対の基準に従って行動している」としても「そこを省みようとせず、あたかも普遍的な正当性を持つかのごとく振舞う」んだから、実践上の矛盾を見いだすことはできるのではないか?
 あるいは、やはりわたしがいう実践上の矛盾というものは存在しないんだろうか。つまり、わたしの疑問は、わたしが言っている「一般人は自身の矛盾が同時に成立しないことを理解していない」という事態(たとえば「1+1」の答えは「2」かつ「2でない」であるということが成立すると思い込むこと)と同様の事態に陥っているものであるのか。
 しかし、「自らのなしたいことをする」という基準を絶対的地位に据え行為しているにもかかわらず、そうした基準を隠し立てしてないものとするという仕方は二重基準ではないのか?  そして、それはここでは根源的な実践上の矛盾でもあるような……。


 また、現に機能している(およびそうした認識をすべての人が承認しているかどうかにかかわらず、彼らが当該認識を共有している)ことを積極的あるいは消極的に受容することが、多数派が好む概念であり、それを持ち合わせていない対象を「子どもである」と揶揄するところの社会性というものか?


  (2) 疑問と質問〔「社会性」の捉え方についての確認〕に対する回答があった。
 Name:あああ  Date:03/07 Wed 21:33:06

まず間宮君のいう理論と言うのは必ずしも公にしなくてはならないものではないと俺は考えているが、それについての意見は?
というのはそうする義務があるとかないとかではなく、この議論をする上での前提として訊いているのである。

とりあえずそれに対する間宮君の返答は置いておいて、ここからは必ずしも公にする必要はないとして話を進める。
だとすると、自分が自分のしたいようにするという基準に従って行動していることを公に認めないという行動自体も、結局は上記の基準には全く反していない事になることは分かるか?
非常に単純な反証で申し訳ないが、そうとしか言いようがない。
これで納得出来ないなら、具体的にどのように実践上の矛盾を犯しているのか、もしくは俺が実践上の矛盾というものをどのように誤解しているかを説明してもらいたい。
そして、これが二重基準ではないのかという見解については、先にも説明したように、そうでない基準は上位の基準に従って変化するか、上位の基準に従った行動、もしくは建前に過ぎず、そもそも基準ですらない、ということになる。

確認的質問については、ディテールは違うが凡そそういう見解だと思ってもらっていい。
また前も述べたが、社会性は自己中心性の産物であると思っている。
いうまでもなく、一般的な意味で正当性を付与しようとすることも自己中心性の産物だと思う。
 まだ分からない。
 まず、前回の時点で無視していたが、議論の前提にしている「誰もが自分のしたいようにする」ということは(わたしから見れば支離滅裂な行為をしている以上、そう捉えるのがもっとも納得がいくとは言え)観察不可能なのではないか。具体的には、「誰もが自分のしたいようにしている」というのが正しい場合には、「自分のしたいようにしているわけではない」と言えば矛盾する。他方、「必ずしもすべての人が自分のしたいようにしているわけではないが、そのような行動をとっている人もいる(比率は関係ない)」というのが正しい場合には、「自分のしたいようにしているわけではない」かどうかは人によって異なる。そして、その人が(たとえどれほど酷い矛盾に陥っているように見えても)「自分のしたいようにしているのかどうか」が分からないから、判断が確定しない。
 次に、あああの言う「基準」は、「ある人が心理的に依拠している何か」のみを指しているのではないか。しかし、基準というものはその基準を立てた人にしか(それが基準であるということを)決められないのではなく、外部からの(対象の言動の)観察によって決めることもできるのではないだろうか。たとえば二重基準の場合には、本当はそうは思っていないことや、自分はその基準を採用しているのだと思い違いをしているものも基準として採用することができる。これが正しい場合、依拠している基準と異なる建前的基準を設けると二重基準になるし(前者)、自らが異なる2つの基準を採用していることに気づいていないだけで、二重基準ではあると言える(後者)。ということは、「自分のしたいようにするという基準に従って行動している」者が、「自分のしたいようにするという基準に従って行動していない」と考えたり、言ったりすることにまったく問題点が認められないのは、「彼にとって」であるということになる。「全ての人間が、自分のしたいようにするという唯一絶対の基準に従って行動している」ということを前提にすると、このわたしもそれに従っていることになる(言われてみればそうだと思う)が、わたしはそれを認める。これによって、「自分のしたいようにするという基準に従って行動している」者のなかで2つの立場ができ上がることになる。「自分のしたいようにするという基準に従って行動しているが、そのことを認めない」者からすれば、わたし=「自分のしたいようにするという基準に従って行動しており、かつそのことを認める」は外部になる。外部(あるいは内部の批判者)からすれば、「自分のしたいようにするという基準に従って行動している」者が、「自分のしたいようにするという基準に従って行動していない」と考えたり、言ったりするのは二重基準であると判断することができる(ただしこれは、最初に述べたように、「誰もが自分のしたいようにしている」ということが本当であるかどうかにかかっている)。
 最後に、「自分のしたいようにするという基準に従って行動している」(ということが確定している)にもかかわらず、「自分のしたいようにするという基準に従って行動していることを認めない」=「自分のしたいようにするという基準に従って行動してはいないという態度を表明する」ならば、たとえば「裁判を起こされて、やっていることを認めなかったら無罪になる」という考え方を採用しなければ矛盾する(もちろん、本当にやっていないのかもしれないが)。ほかにも、こうした「わたしが認めていないものは存在しないのである」と主張する事例はいろいろあると思うが、そうしたものをわたしが批判している人びとは受け入れていないというのが実情である。そして、これに対してあああが「誰もが自分のしたいようにするという基準に従って行動しているのである」という主張を放棄すれば、わたしの言う実践上の矛盾の存在は問題なく成立可能となる。また、「自分のしたいことだけをする」という最上位の基準は、「自分のしたいことだけをするというのは許されない」といった道徳的言明と矛盾する。わたしが一般人と呼ぶ者のすべてがそうした道徳的言明を行っているわけではないが、それは(旧型不良などのような)少数派である。たいていは、そうした道徳的言明を支持しており、それに基づいて法や道徳に反する者を道徳に反する仕方で、ときによっては法に反する仕方で攻撃する。
 あるいは、あああが言いたいことは、「自分のしたいことだけをするというのは許されない」という道徳的言明を行うことは、「自分のしたいことだけをする」という最上位の基準に基づいて遂行されている(したがって「自分のしたいことだけをする」という最上位の基準に含まれている)ということであろうか。しかしながら、「最上位の基準」と「それより下位の基準、あるいは最上位の基準に従った行為」とを比較して〔同列に〕論じることはできると思う。他方、あああはそれができないという立場であろう。したがって、そこが焦点である。


 (3) さらに上記についての回答をくれた。
 Name:あああ  Date:03/09 Fri 02:38:10

まず先に言っておくが、俺は間宮君をやり込めたいわけではなく、私見を述べているだけだ。
ここでいくら話し合ってもお互いの主張が正しいかどうかを証明は勿論、相手に納得させるすら事はできないと思っている。

さて、間宮君が焦点としている事を更に掘り下げると、根本には基準は外部からの観察によっても決定されうるとみなせるかどうかか問題として存在している。
これに対しては俺は既に見解を述べているが、敢えて繰り返すなら、実践上の矛盾がないというのは飽くまで自己完結的な意味合いにおいて矛盾がないと言っているに過ぎない
そして、仮に全ての人間が(意識的にしろ無意識的にしろ)そういった基準に従って行動していると仮定すれば純理論的にも非超越論的な立場における正当性と自己中心性を同一視することにより、問題を解消出来ると思う(間宮君の言う難問が何かはまだ明確にされていないが、予想として)。

今回の間宮君の発言でお互いに実践上の矛盾に対する捉え方に食い違いが生じている事が明らかになった。
ここで間宮君の見解について更に見解を述べる。
外部の人間が(対象の建前の主張等の)観察によってその人の基準を決定出来るとしたところでそこに何の意味があるのか。
俺はそれについては下で述べたつもりだったが、他者との論争においてそれ(矛盾)を批判の材料にする事は出来ると思う。
しかしそれは多数の人間が認証している論理上の制約のもとでの矛盾を指摘しているに過ぎず、その論理上の制約は多数の人間の自己中心性が見かけ上の合意を得て決定されたものであることを忘れてはならない
つまり、他者を非難するための正当性(らしきもの)を付与するために、「間宮君の言う」実践上の矛盾を突きつけるという行為は結局、間宮君が最も嫌っているように思える、多数の一般人による少数派の非難となんら変わりがないということになる。
勿論、俺自身もこういった論理上の制約を利用することは多々あるし、それは合理的(正当性がある事とは別だ)であると考えているが、基準を他人が観察によって決定し、これを二重基準であると言えたとして、突き詰めて考えると、その力を行使する上で必ず矛盾が生じる
その理由は上で述べた自己中心性による自己中心性の批判と、実践という人間の営みにおける超越論的正当性の証明の不可能性による。
結局のところ、この論理でいくと、他者の矛盾を許さないのに、その判断基準には矛盾を含むことになってしまう。
つまり、大多数の人間は矛盾を無視するか、矛盾が最小限だと勝手に思い込んでいる事を正当であると認可していることになる。
言うまでもなく、その矛盾の多寡の基準は人間の感覚に大きく依存しており、またそれが幾ら些細な事でも二重基準を犯すことになる(矛盾を犯すことを許さないのに、矛盾を裁くため(罰を与えるという事に限らない)に矛盾を犯すということだ。逆に矛盾を裁けないなら全ての矛盾は認可されることになる)。
結論として、間宮君の主張を認めると、結局間宮君の主張は許さないはずの実践上の矛盾を含むことになり、また認めなくてはならない
ただし、間宮君の主張が、間宮君も含めた全ての人間が実践上の矛盾を犯しており、これを回避する事は絶対に出来ないという旨であるなら、俺はそれを必ずしも否定しない。

間宮君は客観性を否定していたと思うが、それでも、この問題において基準が絶対だと言えるのは自分だけなのではないか。
他者の決定する対象の基準は、必ずその決定に主観、自己中心性が混じるはずであり、そもそも観察自体主体的行為にすぎない。
他者がそれ以外の他者に実践上の矛盾があると感じる事自体、それは彼自身の内面においてのみ正当化されることだと思う。
つまり、それを間宮君の論法を以って他者に適用しようとする事に無理がある。
だから俺は初めから実践上の矛盾を自己のみに限定してきたつもりだったんだ。
そして他者を自分の基準で裁いても構わない、しかしそれは実践上の矛盾があるから正当であると認められるものではなく、ただ単に自分が気に入らない(自分の基準、すなわち自分勝手に行動するための障害になる)から裁こうとしているだけで、その行為はまた他者の力によって(正当性なく)制限されうるという事だけが事実として確認できる、というのが俺の見解だ。
 ようやく分かった。わたしの矛盾批判には自己論駁的矛盾も含まれていたが、実はそのわたしもまた自己論駁的矛盾に陥っていたのである(言い換えれば、他者の矛盾を断定してしまうと、わたしもまた矛盾に陥らざるを得ない批判の仕方を行っていた)。また、実践上の矛盾が行為間の整合性のみを問題にしていることを以って、実践上の矛盾については理論を必要としないと考えていたが、実際には理論負荷性を持っていたということも判明した。




 備考


 実践上の矛盾/行為間の不整合が実は立ち現れることのない偽の問題であることが分かったため、残るは理論の問題〔規範倫理学や道徳哲学と呼ばれる学問分野における探究〕、さらには純理論的な問題〔メタ倫理学=善悪概念の分析、そして何よりも正当性の根拠=何が信念や命題や行為を正当化し得るか、あるいはそのような何かは存在しないかについての探究〕である。
 わたしは、自然科学によって明らかにされた事実を以って直ちにそれを価値化することを自然主義的誤謬と呼んでいて、すでにウェブサイトやこの掲示板で示した(■たとえ「人は倫理や法律に違反することに対して常に否定的であるという生物学的特性を持っている」という命題が正しいとしても、ただそれだけで倫理や法律に違反してはならないということにはならない(その命題が示しているのは、単に人がそうした特性を持っているという説明が正しいということだけである。→(一般化)→■科学は、人がどのようにして当該信念を持つようになるかというところまでしか回答を与えられず、したがってそうした信念を持つことが本当に正しいか〔持ってもよいか〕どうかは分からないのである)が、これにはサール(John Rogers Searle)や社会生物学と進化心理学からの、異なる反論があるようなのだ(後者については知らないので、以下ではサールによる議論を紹介する)。


 ●「(1)=経験的事実のみから(5)=規範的言明が導出される」
 (1) Aは、「私はこれによってBに5ドル払うと約束する」という文を発話した。
 ↓論理的真理
 (2) AはBに5ドル払うと約束した。
 ↓?
 (3) AはBに5ドル払うという義務を自らに課した。
 ↓論理的真理
 (4) AはBに5ドル払うという義務を負っている。
 ↓?
 (5) AはBに5ドル払うべきである。


 わたしには、(2)から(3)への展開が分からない。ここには、「「約束する」といったような、発語内の力を示す言語的装置を発話することは、約束した行為を遂行する義務を負うことと見なされる」という本質規則や「話者がその行為をなそうと意図している場合にのみ、約束するといったような、発語内の力を示す言語装置は発話されるべきである」という誠実性規則などが入るらしいが、「Name:_ Date: 03/06 Tue 12:26:39」が指摘したように「理論上」は「開き直れば終了させられる」のではないか。
 また、(4)から(5)への展開も分からない。一般的には「義務を負う」ことは「その義務を遂行すべきである」ことであり、したがって多数派に対する強制力にはなり得るが、これもまた「理論上」は直ちに正当化されるものではないと思う。たとえば、多数派やそれが支配的な社会というものにコミットメント(commitment)していない者までがなぜそれに従う必要性があるのかということである。あるいは、少数派が(そんなものが実際にあるかどうかはともかくとして)どこにも属さない地に集まって互いにあまり干渉せずに生活している場合にも、そのようなことが言えるのであろうか?(なお、「どの国家にも属さない土地は現実にないから、少数派はどこかに属さねばならず、したがって所属したところで支配的な規約に従わなければならない」という考えもまた、直ちに正当化し得るものではない。また、ある場所が国家のものであるという主張の正当性を論証することができないならば、その場所が特定であるかどうかにかかわらず個人のものであるという、これもまた論証を伴わない主張と同等であるため、原理的には決着が付かないことに注意してもらいたい。)


 なお、以下の前提で話を進めていることを付け加えておく。


    ┌─人びとはどのようにして論証を伴わない〔不当な〕正当化を行うか
    │
認識論─┼─あることが事実であるという信念をどのようにして正当に正当化することができるか/事実についての問題│
    └─ある行為をしてもよいという信念をどのようにして正当に正当化することができるか(※1)/規範ないし当為についての問題
      ┌─規範倫理学にかかわる認識論(※2)
メタ倫理学─┤
      └─規範倫理学にかかわる存在論(※3)


※1……ここで言う「行為」には、自らがある感覚や感情を持つことを許容するといったようなことも含める。
※2……ある行為をしてもよいという信念をどのようにして正当に正当化することができるか。
※3……善や悪は存在するか。
更新日 2007年5月4日
作成日 2007年3月6日




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